緑の光線
『緑の光線』1986年フランス
デルフィーヌみたいな友達がいたら面倒だな、と思いながらも
恋する不安や理想と現実のはざまで身動きが取れないもどかしさは、
痛いほど共感できた。
自分はどうしたいのか、
どうすれば幸せだと思えるのか、
悩みのたねはいつの時代も変わらないし、
それを解決に導く道筋も案外変わらないものなのだ。
恋人と別れたデルフィーヌは、友人とギリシアへバカンスに行く予定だった。
しかし、友人から突然のキャンセル。
行くあてのなくなったデルフィーヌは、別の友人家族とシェルブールに行くことになるがどうも馴染めずしっくりこない。
その後に一人で訪れた海辺の町で彼女はある瞬間に出会う・・・
一人でいるのがいいのと言いながら、いざ一人になると寂しさに打ちのめされ、
声をかけてくれる男の人がいても、どこか違うと跳ね除けてしまう。
他人は他人だと思いたくても、やっぱり周りが気になる。
一人でいることへの不安、恋人がいない事への劣等感・・・
いろんなことがどうやったら上手くいくのか分からなくて、
泣いてばかりいるデルフィーヌ。
地中海の海や空は、夏の太陽で輝いているのに、彼女の心は晴れない。
ネガティブな考え方なのは自分でも分かっている。
ただ、一歩踏み出すことがどうしてもできないのだ。
恋人が欲しいのなら、出会いを求めなくてはと友人は言うし、
出会いのきっかけも与えてくれたりするのだが、
彼女はどうもその感覚に乗ることができない。
それは私にもすごく分かるのだ。
そうしないと何も起こらないと分かっているけど、
そうして出会うのは何だか違う気がするし、
そこまでして出会いを求めている訳でもないと思ってしまうのだ。
周りのみんなはそうして恋人ができたりしている中で、
自分だけ取り残されてしまったようで、
その輪から外れてしまった気がして落ち込む。
主人公が遭遇する出来事や悩みは、どこにでもあるようなちっぽけな出来事だったりする。
そんな日常を静かな目線で美しく描いている。
それは、私が過ごしている日常も、少しはドラマチックに輝いているかもしれないと思わせてくれる。
その人の気持ちが動くとき、それは一歩踏み出す適切なタイミングなのかもしれないのだ。
ソン・ランの響き
1980年代のサイゴンを舞台に、取り立て屋と大衆歌舞劇の花形役者の出会いを描く。
懐かしさを感じさせる映像と、その色合いの美しさはとてもロマンチック。
画面の構図には芸術的なセンスが感じられる。
ストーリーの流れは少し単調な気もするが、
無口な取り立て屋と華やかな舞台役者の二人のキャラクターの対比は素晴らしかった。
カイルオンと呼ばれるベトナムの大衆歌舞劇は、中国の京劇のようだ。
巡業の失敗などで借金を抱えながら舞台に上がる彼らの姿には切なさを感じる。
借金の回収をしているユン(リエン・ビン・ファット)は、
その凶暴性ゆえに人々から恐れられていた。
ある日彼は、大衆歌舞劇カイルオンの劇場に取り立てに行くが、
楽屋にいた団長に借金の返済を断られる。
ユンは舞台衣装にガソリンをまいて火をつけようとするが、
劇団の若手花形スターのリン・フン(アイザック)に止められる。
(シネマトゥデイ より)
ウォン・カーウァイ監督の『花様年華 』を思わせる、色っぽさのある色調はとても好みだった。
内容的には、京劇に似た歌舞劇という点で『さらばわが愛~覇王別姫~』まで濃ゆくはないが、
同性の友情以上の淡い感情が描かれている。
そこにいたるまでにかなりの時間を割いたからか、
不自然さはなくごく自然に二人の感情に共感できた。
嫌い合っていた二人が徐々に距離が近づきだす様子が丁寧に描かれているのだ。
そして主人公二人の感情をおもてに出さない表情は、小津作品のようだ。
セリフは多くはなく、雰囲気重視の作品といえばそうかもしれないが、
少し気取っていても私はそういう作品がやっぱり好きなんだと、この作品を観て思った。
孤独な二人が、自分にとって大切だと思える人に出会う。
それは異性であっても、同性であっても変わらない感情ではないだろうか。
ラストはハッピーエンドとは言えない。
しかし、映画全体の静けさと、アジア独特の香り漂うこの作品は、
記憶に残る素敵な作品だった。
マイ・ブックショップ
マイ・ブックショップ(2018)
1959年、戦争で夫を亡くしたフローレンス(エミリー・モーティマー)は、
書店が1軒もないイギリスの田舎町で、夫との夢だった書店を開こうとする。
しかし、保守的な町では女性の開業は珍しく、彼女の行動は住民たちから不評を買う。
ある日、40年以上も自宅に引きこもりひたすら読書していた老紳士(ビル・ナイ)と出会う。
(シネマトゥデイより)
この映画の色合いがとても好きだ。
イギリスらしい曇り空、海沿いの寒々しい空気感。
それに主人公の落ち着いた佇まいがとても似合っていて好きだった。
主人公の純粋な本への愛、書店への愛が感じられる。
それは彼女の柔らかい笑顔からは想像できないほどの勇気や情熱が彼女自身にあったからだろう。
何事も上手くいくものではないが、彼女は思った以上に上手くいかなかった。
それは彼女が妥協して別の場所に書店を開かなかったかったからかもしれないし、
もしそうしていたとしても上手くいかなかったかもしれない。
戦争で夫が帰らなかった、彼との夢だった書店を小さな海沿いの田舎町に開いた、
ただそれだけのことなのに。
彼女はその町には合わなかったのかもしれない。
今の時代でもそうだが、田舎では嘘か本当か分からない噂話が絶えない。
彼女を陰で良く思わない人がいるのもよく分かる。
だが彼女が独り身ではなく、夫婦で子供もいれば少しは違ったのかもしれないと思ってしまった。
女性が一人で生きて行くというのは、今よりもっと厳しい時代だったろう。
しかし、妥協することは彼女の気持ちが許さなかったのだと思う。
そして、町で唯一の読書家である老紳士と出会い、書物への助言を受けつつ、彼へ愛情を感じ始めたが、それも長くは続かなかった。
監督はインタビューで…
愛とは 手を取り夕暮れを歩く2人のことではなく
心の純粋さや寛容 時には抑制や犠牲でもある
当然 喜びもあるけど 苦しみだってあるわ
それは、彼女と老紳士の関係性そのものだと思う。
自分の気持ちに正直であること、それをまっすぐ行動できること…
簡単なようでとても難しい。
主人公を演じたエミリー・モーティマーがとても魅力的だった。
笑い方が独特だがとても可愛らしい。
衣装も素敵でよく似合っていた。
老紳士役のビル・ナイも、長身で歩き方が凛々しく、素敵だった。
そして二人とも純粋な心の持ち主だった。
フォードvsフェラーリ
『フォードvsフェラーリ』(2019)
カーレース界でフェラーリが圧倒的な力を持っていた1966年、エンジニアのキャロル・シェルビー(マット・デイモン)はフォード・モーター社からル・マンでの勝利を命じられる。敵を圧倒する新車開発に励む彼は、型破りなイギリス人レーサー、ケン・マイルズ(クリスチャン・ベイル)に目をつける。時間も資金も限られた中、二人はフェラーリに勝利するため力を合わせて試練を乗り越えていく。(Yahoo!映画より)
カーレースを題材にした映画は好きだ。
『栄光のル・マン』『グランプリ』他はあまり知らないけど…
まったく車について詳しいわけではないけれど、エンジン音やスピード感、
なんといってもレーシングカーのデザインが好きなのだ。
速く走ることはもちろん、走り続けられる耐久性を持った車を作るために、
改良を重ね作り上げられたそれぞれの車には、生き物のような迫力がある。
カーレースに事故はつきもの。
命がけの戦いなのだ。
だが、そこに夢を持って、人生を賭けてでも挑もうとする男たちの姿にグッとくるのである。
1966年、フォード社は景気の落ち込みもあり、自社のイメージ向上のため、
カーレースへの参入を決めた。
フォード社はフェラーリを買収しようとしたが拒まれた。
なぜならフェラーリは、はじめからフォードに買収される話を流して、
フィアットに高値で買収してもらおうという魂胆だったのだ。
それに怒ったヘンリー・フォード2世は、ル・マン24時間レースで
フェラーリに勝てる車を作ることを決める。
プロジェクトを任せられたのは、元ル・マン優勝者のキャロル・シェルビー。
彼は、レーサーのケン・マイルズを誘い、打倒フェラーリに挑む。
ピットインの整備士たちの手際の良さやチームワークなど、観ていて楽しい。
フォード車の幹部たちからの圧力や、レース中のアクシデントにもチームワークで乗り切る。
そしてケン・マイルズの息子と奥さんがとても良い。
よくよく考えてみれば、カーレースって命を賭けるほど必死になるようなことなのかしら、と思ってしまう。
勝つか負けるか、ただそれだけのことで、下らないと言えば下らないのでは…。
しかし、そんなことなど疑問に思わず、自分の仕事に全力を注ぐ。
意味など考えず、その物事にのめり込めることがある人は結果がどうであれ幸せだと思う。
レース終盤のフェラーリとの接戦、「いまだ」と相手を追い抜く瞬間の、
何とも言えない高揚感というか、そういう緊迫感が伝わってくる素晴らしい映画だった。
まさかカーレースの映画で感動するとは思わなったが、なかなか心つかまれる作品だった。
また、クリスチャン・ベイルも良かったが、個人的にはマット・デイモンって
今まであんまり興味なかったけど、わりと良い俳優さんなんだなと今さらながら感激した。